両国の国民性の違いは、庭園の造作に象徴的に現れます。


フランスの庭園が植栽も含めて幾何学的に完壁な人工空間を指向しているのに対し、イギリスの庭園は自然をありのままに生かす日本流に近い作法が尊重されています。


ル・ノートルによる一連の庭園とロンドンのリージェンツ・パークを対比すると、その差は明白です。


その違いが、一方は、パリを守りきり、他方は、ロンドンを20世紀建築の成すがままにまかせ・・・


おもちゃ箱をひっくり返したような都市を造り上げてしまったというのは短絡した見立てでしょうか。


20世紀初めは都市への社会的な関心が高まった時代であり、イギリスにも都市をマクロにとらえる発想は存在しました。


エベネザー・ハワードによる「田園都市」構想もそのひとつですが、郊外地を対象として、むしろ、ロンドンからの離脱を意図していました。



イギリスが産業革命の先陣を切った国であったことと無縁ではないでしょう。


しかし、一方で、イギリスでは、都市が近代産業のされるがままの状態に置かれることに抗したモリスやラスキンのような思想家が19世紀末に輩出されたことも事実です。


その意味では、無軌道な20世紀都市の跳梁は抑えられてもよかったはずです。


しかし、どちらかというと身辺の小物の次元から立ち上がるモリスらの理論は、人間的な郷愁としての共感は誘っても、急速度で侵食してくる工業主義と大量消費の波の前では無力でした。


一般にイギリス人の空間感覚は、フランス人のような大きなパースペクティブを基本にしているのではなく、小さな実感をつみ上げていく発想が色濃いのです。


そのことが、ロンドンの20世紀において、都市の景観への大きな指針が提示されない状況を生じさせてしまいました。


ジョン・ナッシュによるリージェント・ストリートの気宇壮大な「はりぼて建築」(いかにも重厚な石造風ですが・・・


中身は煉瓦造でそれらしく漆喰で仕上げてある)も十分に、聖歌隊の要件を備えています。


それらの19世紀の「尺度」は、見事なほど20世紀に無視されました。


19世紀ロンドンの完壁な宇宙は、20世紀都市の暴力の前に躁躍されました。


その理由は、いくつも考えられます。


ひとつは、イギリスの20世紀建築が、極度に技術優位で発展してきた経緯が影を落としています。


ロジャースやノーマン・フォスターらイギリスを代表する建築家の名を挙げると、彼らがハイテク・デザイン指向であったり・・・


あるいはアリソン・アンド・ピーター・スミッソン夫妻のようにモダニズムの表現を荒々しく際だたせるブルータリズムの主唱者であったことに気付きます。


旅で心を洗う。


そしてなにものにも捉われずその心を歌う。


・・・このことは、旅に限ったことではありません。


旅のこころはすなわち、歌の心に通ずるのです。


複雑な事象、混沌たる現実をうたっても、短詩型は一首に収録、結晶させて、簡潔に冴ゆ、といきたいものです。


わたしたちは、仮りものではない本物の歌をつくるよう心がけたいですね。


自分の歌を、巧拙をこえて歌いたいものです。


旅はそういう機会を与えてくれます。


  葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり 釈迢空


  網曳きする村を見おろす阪のうへ にぎはしくして、さびしくありけり 同


  人も馬も 道ゆきつかれ死ににけり。旅寝かさなるほどのかそけさ 同


・・・など、まだまだ挙げたい歌がたくさんありますが、別の機会にしましょう。


  幾山河越えさり行かば寂しさの終てなむ国ぞ今日も旅ゆく 若山牧水


・・・旅の歌といえば、牧水のこの歌を逸するわけにはいきません。


これほど多くの人に愛誦されている歌も少ないのではないでしょうか。


旅の代表歌といえるでしょう。


さて、このほか近代短歌のたびの秀歌はまだまだありますが、そしてまた現代短歌にいたっても佐藤佐太郎、近藤芳美など多く旅の歌を作っていますが、ここでは割愛します。


旅の異色歌人に釈迢空がいます。


迢空は民間伝承の採訪旅行の間に幾多の旅の歌をのこしていました。


白秋は迢空を黒衣の旅人と称しました。


  たびごころもろくなり来ぬ。志摩のはて安乗の崎に、燈の明り見ゆ 釈迢空


・・・この歌は、迢空26歳の8月、中学生2人を連れて、伊勢から志摩、熊野へ旅行した折のものです。


たびごころが小舟にゆられながら次第にもろくなってゆく、感傷的になってゆく。


そして志摩のはての安乗の先に燈台の灯りが見えたことには、もうおさえることの出来ぬほど、いいがたい感動にうたれたのであったのでしょう。


若く、純粋なたびごころが読む者の心に、素直に、やわらかく伝わってくるよい歌です。


明治以降の近代短歌にも旅の歌は夥しいです。


  若くして異国を恐れ遠く来て今日この頃は故国を恐る 与謝野鉄幹


・・・この歌は昭和3年、満鉄からの招きで満州、いまの中国東北地方を旅行したときの作と言われています。


いままでに挙げてきたものとひどく違って、ここでは旅ごころなどというものでは律せられない、自己の思念を旅で歌いあげて、特殊な旅の歌ということになるでしょう。


  三千里わが恋人のかたはらに柳の葉の絮の散る日に来たる 与謝野晶子


  ああ皐月仏蘭西の野は火の色す君も雛罌粟(こくりこ)われも雛罌粟(こくりこ) 同


・・・これらは与謝野晶子が鉄幹を追って遠くパリへ旅した歌で、いかにも晶子らしい情熱的なよい歌です。

井上靖氏が昭和55年、埼玉新聞の文芸欄で「ゆくえも知らぬ」と題して随想を書かれていましたが、そのなかで、この最後から二番目の、


「風になびく富士の煙の空にきえてゆくへも知らぬ我が思ひかな」にふれて、


「・・・西行が東大寺大仏の沙金歓進のために、伊勢の草庵を出たのは、文治ニ年の秋、69歳の時である。


東海道を東に向かい、駿河を通る時、この歌を得ている。


西行は"ゆくえも知らぬ"と歌っているが、老齢を押して奥羽を目指す大行脚に出で立った西行の心には、何を見ても行方も知らぬ思いが去来していたことでろうと思う。


私はいつ(し)か、その時の西行の年齢を越している。


富士に噴煙が立っていたら、私もまたそれを眺めて、そのような思いを持つかもしれない。」


・・・と言われています。


富士のけむりの歌ではありますが、同時に旅の歌、人生の旅の歌として、井上氏はこのようにしみじみと述懐されているのです。

こんにちは。


今日も前回、前々回から引き続き、城山三郎著の『粗にして野だが卑ではない石田礼助の生涯』から少し引用させていただきます。


・・・


「石田が自分であり続けるためには、『マンキー』として徹することであり・・・


勲一等だからといって、マンキーをやめるわけには行かない。


それでは『マンキー』を汚してしまう。


粗にして野だが卑ではない・・・


この会心のライフ・スタイルを、石田は死後といえども変えさせなかった」


・・・これはとてもあっぱれな生き方ではないでしょうか。


「死後、政府から勲一等叙勲の申し出があったが、これも未亡人つゆが頑として受けなかった。


"やめて下さい。


あれほど主人は辞退していたんですから"


石田には、すでに国鉄総裁在任中に勲一等にという話が持ち出されていた。


"どうしてももらってもらえ"


という池田総理の強い意向を受け、黒金泰美官房長官が"何とかもらって欲しい"と足を運んだのだが、石田はかぶりを振り続けた。


"おれはマンキーだよ。


マンキーが勲章下げた姿見られるか。見られやせんよ、キミ"


勲章を断るのは、たしかに恰好いいが、人にはそれぞれの生き方があり、


「断るほど偉くはない」


という考え方をする人もあるだろう。


問題は、石田のその断り方である。」



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